どんなにゅーす?
・麻原彰晃(松本智津夫)元死刑囚をはじめとした、オウム真理教の幹部7人が一度に死刑執行されたことに世界が批判声明を発表している中、立憲民主党の有田芳生議員が、法務省の幹部が今回の「一斉執行」に懸念を示していたことを明らかにした。
・そんな中、世界が死刑制度の是非について活発な議論が行なわれている中、日本国内において現状制度の是非や議論を行なう土壌が全く形成されていない国内マスメディアの現状に危機感を唱える声が上がっている。
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まるで公開処刑! オウム大量死刑執行を“実況中継”したマスコミの狂気! 死刑執行に世界からは非難の声
また、国連の人権高等弁務官事務所は、JNNの取材に対し文書で回答。〈死刑は人権上不公平な扱いを助長〉〈他の刑罰に比べ犯罪抑止力も大きくない〉〈麻原死刑囚ら7人の死刑が執行されたことを遺憾〉としているという。
しかし、こと日本ではまったく逆の空気に覆われている。たとえば、オウム事件を追ってきたジャーナリストで参院議員の有田芳生氏が、執行当日の6日に出演した『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で、麻原元死刑囚ら7人への死刑執行についての疑問点を述べるなかで、法務省幹部の『(13人の同時執行は)ありませんよ。そんなことをやったらジェノサイドです』という言葉を紹介した。すると放送後、Twitterでは有田氏を中傷するこんな投稿で溢れたのだ。
〈ジェノサイド?有田も死ねばいいのに〉
〈あまりにも加害者擁護に怒りさえ覚えた〉
〈これを「ジェノサイド」と言うのならば有田氏及びミヤネ屋はテロ支援団体と言っても過言では無い〉
〈あんだけ人を殺したら死刑が当然!それを批判するあんたは同罪!〉死刑について批判的な言葉を紹介しただけで「お前も死刑だ」と炎上させられる日本の空気は、ファナティックとしか言いようがない。有田氏があらためて本サイトに対してこう語る。
「『ジェノサイド』というのは、法務省幹部の発言です。私が『13人を同時に執行するのですか?』と聞いたところ、『ありえない。そんなことやればジェノサイドですよ』と、まさしくその言葉がありました。Twitterでも聞き取りに基づいて6月2日に書いたメモの内容を公開しています」
法務省の幹部すら、13人を同時に死刑に処すのは「ジェノサイド」=虐殺だと言っているのだ。死刑制度が誰がどう見ても「国家による殺人」に他ならないでことを考えれば当然の表現であり、7人でもジェノサイドに変わりはない。
~省略~
特別報道番組のなかでも、死刑囚の顔写真に「執行」とのシールを次々に貼り付けていった。その様子はさながら「今からこの人が死刑になりますよ」「たった今死刑になりましたよ」というリアルタイムの実況中継であり、ネットでも視聴者から「まるで公開処刑だ」などの多くの懸念があがった。
一方で、コメンテーターらの口からは、死刑制度の是非についてはもちろん、麻原元死刑囚ら7人への執行について正面から疑問を投げかける場面はほとんどみられなかった。法務省幹部の「ジェノサイド」発言を伝えた前述の有田氏は極めて稀なケースだったのだ。
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世界が盛んに議論を喚起する中、日本国内では「死刑の是非」そのものを考える機会を奪うための世論誘導(思想操作)が推進されている模様
↓日本国内でも多くの批判を呼んだ、フジテレビの「執行シール」を次々貼る演出。
出典:Yahoo!ニュース(FNN)
立憲民主党の有田芳生議員によって、今回の安倍政権によるオウム幹部に対する「7人同時死刑執行」に対して、法務省の関係者の中でも強い懸念の声が出ていたことが分かりました。
当サイトでも、今回の一連の動きとそのマスコミの報じ方について「異常事態」と批判してきましたが、やはり政府の中、それも法務省の中からこのような声が出ていたのですね…。
リテラでも同じようなことを指摘しているけど、ボク自身が見ていても、どうも、日本国内の中に「死刑制度ってそもそもどうよ?」という、問題の本質を見つめ直し、丁寧に議論をするという土壌が形成されないよう、意図的にこれを潰そうする動きがあるようにも感じられる。
その証拠に、今回の世界に衝撃を与えた「一斉執行」についても、インターネットでこそ、この是非を問うような記事や声をよく見かけるけど、大手のマスメディア・特にテレビに目をやると、奇妙なほどに、この背景を深く考え、その是非について問うような論調はほとんど無く、その多くが脊髄反射的に安倍政権の動きをセンセーショナルに報じ、何の意見も批判もないまま、事実関係をただそのまま伝えるだけの報道に溢れてしまっている。
これは言い換えれば、「死刑」というものが、言い換えれば「国家による殺人」であること、そして「”人を殺す権限”を持たせるほどに、国家に圧倒的な権力を授けること」にも繋がるという、非常に大きく危ういデメリットを持ちあわせている制度であることを、どうにか国民に考えさせようとしない力がかかっていると捉えることもできるのではないだろうか。
死刑制度を肯定する人々の中で、「かけがえのない人の命を奪った人間こそ、同じように死をもって償うべき」という考えの下でこれを支持をしているケースが多いかと思いますが、これは言い換えれば、逆に「人の死や生命を軽んじることに繋がる」危険性もあるということがいえるのではないでしょうか?
現に、今回のマスコミ報道を見てみると、多くの人が不快感を持ったように半ば「処刑ショー」のような扱いをしたことで、かえって人間の生命がことさらに軽視されているような傾向が見られたからね。
「遺族感情を慮れば、死刑は当然」という意見も非常に多いけど、現に世界を見渡すと、死刑制度がないか廃止された国が圧倒的に多く、グローバルなレベルの視点で見ると、この主張もいささか整合性を欠くことになる。
つまり、これは人間としての普遍的な感情によるものではなく、「日本」という閉ざされた共同体における一つの”価値観””宗教観”によるものであるということになるだろう。
もちろん言うまでもなく、遺族の感情を最大限慮り、「彼らが大きな損害や心理的な負担を背負うことを軽減させるためには何が必要なのか」を考えていくことは絶対に必要だ。
しかし、それと死刑制度は単純に結びつくものではなく、ボクたち日本人は、あらかじめ社会に醸成(インストール)されている「価値観」「思想操作」などによって、こうした意識を植え付けさせられている可能性にも目をやる必要があるのではということなんだ。
確かに、圧倒的に多くの国ですでに死刑制度がなくなっていることを考えても、この日本人の間に強力にインプットされている「死刑制度に対する賛美」について、客観的に見つめ直してみる必要があるかもしれませんね。
そして、そうした「価値観」こそ、国家に対してより強大な権限を授けることに繋がり、これが人命軽視の思想や「国家のために個人が犠牲になる」全体主義を形成させる一要因に繋がっている可能性にも目をやる必要がありそうです。
繰り返すけど、死刑制度が当たり前のように世界で存在していたのは、人権の意識が圧倒的に希薄だった大戦以前であり、民主主義や人権に対する意識が高まりつつある現代において、民主的な取り決めによって世界的に死刑が廃止されつつある状況に対しては、まず客観的に認知しなければらないだろう。
そして、日本国民がこうした客観的な視点を持ちながら、現行の死刑制度に対する是非や議論を行なう機会を奪っている社会の空気やマスコミの報道にも疑問を持ち、多面的な視点を持ちつつ、政治や国民の間で活発に議論を繰り返しながら、この問題の是非について考えていくことが、健全な社会や国家制度を形成することに繋がるのではないかと思っているよ。
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